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タイトル  ブッダの幸福論
本文  
「ブッダの幸福論」アルボムッレ・スマナサーラ(著書)は、ブッダが思う幸福論を説いたものと思えば良い。この本の冒頭、ブッダは、「物に依存しない」生き方が良いと言う。財産によって心配が生まれ、失う恐怖が生じてしまう。自分の持っている能力で勝負して、例えその世界のトップに立っても幸福の必須条件ですら持てないと言う。じゃー幸せは何かと言うと、違った枠で考えなくてはいけない。ブッダはそれを教えていると言う。

子供の頃は、「どう生きればいいのか?」とか、「生きるということは何なのか?」とか、そんな生きる術など考えていません。そこに、本来の「生きる術」が隠れているのです。私たちに必要なのは、楽しみ、喜び、充実感、つまりああよかったという気分を得ることです。ですが、大人になって生きる道を二つに分けて、やりたくない仕事の合間に、ある時間だけ「生きること」にしてしまうのです。ほんとうは、人生は楽しくないと前に進むものではないんです。だから、私たちはなんとかして、何をやっても楽しくなれるようにと、工夫しなくてはいけないんです。「楽しく生きることは無駄で、危ないんだ。もっとしっかりやらなくてはいけないんだ」と考えてしまう。この「しっかり」ということを「苦しく」やることだと、間違って理解しているのです。「なぜ仕事をするのか?」というと、生きているからです。「なぜ社会と正しい関係を持たなければいけないか?」といえば、生きているからなのです。ここで、「生きていること」と「生きているからしなくてはいけないこと」を分けてしまうと、それが失敗のもとになるんです。社会と関わりを持つときにも、何とかしてその中から生きる楽しみ、喜びを得るようにしてみる。

現代人はただ生き物との関係を壊してしまえばいいと思っています。人間が病気になるからといって、あるウイルスを絶滅させてやるぞ、なんてことは決して考えてはいけません。自分の身体にウイルスがあったら、身体の免疫機能がウイルスを退治して自分を生かすし、身体の力で勝でなかったら医者にお願いして、注射でウイルスを処分してもらうのであって、地球上からそのウイルスを完全に消してやるぞと思うことはよくないのです。ただ生きていることが、他者とのいろいろな関係であって、神聖なるものであると思ってしまえば、どんな小さなことでもとても気分よくできるようになりますから、そういう問題もかなり解決できます。人間の社会で関係を保つために必要ないろいろな義務は、自然に出てくるものです。人間が勉強なしに生きていられないのは先程言った通りですが、私たちが勉強したものを社会が買って、私たちに食べるものを与えてくれます。社会というのは、いちばん資格のある人からものを買うのです。やはりどんな仕事なら自分は満点でできるのか、と考えて仕事を選ぶ必要があるのです。世のなかで言っていることは、順番が違うのです。「好きを仕事に」とよく言われますが、そうではなくて「できるから楽しくなる、好きになる」というのが本当です。生きる意味や勉強する意味を探すことよりも、自分が勉強して得た知識を、自分が生きる上でうまく使うということが大事です。その知識を使って人との関係を保っていくことが、生きることなのです。「趣味はなんですか?」と聞かれて、「仕事です」と胸を張って言えるならば素晴らしいことです。

正しい生き方つて何だろう? 仏教の「生き方=戒律」には五つの項目があります。①不殺生-「生命を殺さない」命を守る人こそが守られる。②不偸盗-「盗まない」とは「一人分」で生きること。③不邪淫-性欲を満たそうとしてはいけない。④不妄語-ウソをやめることは智慧を育てること。⑤不飲酒-酒もドラッグも大切な「智慧」の土台を壊す。ここまでやってはいけないことについて述べましたが、やってほしいこともあります。それは四項目あって、仏教用語で四摂事といいます。①布施-人に何かしてあげるのは楽しい。②愛語-やさしい言葉を話す。③利他-よきアドバイザーになろう。④平等-差別しない人こそが尊敬される。

命というものは、いますぐこの瞬間にも死んでなくなるもろいものです。その死をちょっとずつ引き延ばしてもらう。それで八〇年くらい引き延ばしてもらえますけれども、やがて引き延ばせなくなります。人生はいつでも、ずうっとハードル競技で、次から次へとハードルがある。それをひとつひとつ飛んでいくのです。

単純に言えば、生きることには何の意味もない、無意味な行為であると指摘しました。生きることは完全に無価値で、無意味であるといっても、この上ない尊い目的を作ることができます。初めは意味がないものだったとしても、我々人間には新たに生きる目的を築くこと、ゴールを設定することができるのです。お釈迦様の言葉から結論を出すならば、生命は目的がなく、さまよいながら生きているけれども、「解脱(悟り)に達するのだ」という目的を設定できるのです。意味がないのにわれわれは生きることが尊いのだ、深遠な意味があるのだと、自分に暗示をかけておこうとします。人生は尊いものだ、深遠な意味があるのだという暗示にかかったら、生きることに何の意味もない、ということに気づきません。生きることに徹底的に執着するのです。他人に迷惑をかけてでも、他を破壊してでも、生き続けなくてはいけないと思うのです。自分を守るためなら他を殺しても一向にかまわないと思うのです。人生について「生きることに尊い意味があるのだ」という勘違いの人生論を作ると、生きることに執着し、罪を犯します。

これを読んで思う事は、易しい口調で書かれているので、表現に苦心しているなあと言う感想だ。しかし、言葉の端を見つけてどうだ、こうだではなく、論旨をくみ取れば、確かに教えを説いており、良い事が書かれている。その内のナンパーセントかは、既に出来ていたかもしれない。残る何パーセントかは、どうしようと言う感想だ。最後の人生に意味はないは、強烈だね。そうかも知れません。自分の人生に価値が有ると思えば、生きる事に執着し、認知症になってもその思いだけが残り、周りにこれでもかと言う程に迷惑を振りまき、生きる事になる。他人の人生を潰す人生を生きた事になる。ああは、なりたくない。その思いを新たにした。

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