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タイトル  新しい道徳
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「新しい道徳」藤原和博(著書)は、これが正解と言ったような古い道徳観ではなく、変化が激しい「成熟社会」では、「正解」より、議論し、試行錯誤した先にたどり着く「納得解」の方が大事になると説く。日本の大人のとる行動は、旧来からの道徳的な感受性のツボにはまると、マスコミの論調に後押しされながら、いつも感情的な帰結を求めるクセがある。思考実験を通して、新しい時代の「道徳」のあり方に一石を投じてみる。なにより感情論だけの「古い道徳観」から、理性に裏打ちされた「新しい道徳観」へのシフトチェンジが、いま、日本には必要なのである。

ケータイ依存症。いったん、そのネットワークにつながってしまうと、「なんとなく、ひとりじゃない」という感覚の魅力、あるいは魔力から抜けられなくなってしまう。つながっている安心感によって、自分自身の人生の仕切り感覚が失われていくのだ。帰属意識が持てなくなった社会で、その虚しさを埋めてくれているのが、宗教ではなく、ケータイとテレビなのだ。テレビは、二項対立の図式ですべてを見せる。「正か邪か」「天使か悪魔か」空気を決めるのはテレビだということだ。学校における教育が極度に「正解主義」に偏っていることによって、テレビの流す情報に無批判で従順な信者を大量に生み出した。こうして、テレビとケータイと学校が結びついた三位一体の「テレビ教」という、日本独自の宗教が成立することになる。

成熟社会に入った日本では、「読み、書き、計算」のような基礎学力を身に付ければ、身に付けないより、より幸せになるという構図への信頼感が薄れてしまった。ここに至って読者には、学力の二重構造を理解してもらわねばならない。情報の扱いにおける「情報処理力」と「情報編集力」の違いについでだ。TIMSS調査は、読み、書き、計算や暗記力に深く関わる「情報処理力」を、PISA調査は、課題の発見や問題解決能力など、より社会的な対処に必要な「情報編集力」を測る調査なのである。

小中学生では、テレビを中心としたマスコミの報道が直接間接の影響を受けやすい。マスコミにはキツい意見だが、有識者の間には「自殺報道の後には自殺が増える」という指摘もある。死んだらもうお仕舞なのではなく、いじめつ子たちが警察に処罰されるところを、どこか浮遊する眼差しでもって「観られる」と考えている可能性もある。

これを読んで思う事は、共感するところもあるが、いやいや違うだろうと言う所もある。何故こうもバラバラに意見が有ったり分かれたりするのだろうかと、その訳を考えてみたくなるような著作だ。教育論では、まとめの文章には書いて無いが、そもそも違うなと思う。著者は、ゆとり教育への賛成の立場で書いているが、いささかこじ付けの論理展開が、鼻に付いた。そもそも基礎学力無くして、情報処理力は、存在しないと言うのが私の考えで、簡単に分けられるものではない。私は、材料も無いのに、おいしい料理を作るのは、そもそも出来ないと言う立場だ。材料がっても、まずい料理もあるように、確かに情報処理力は大事だが、材料も大事だ。そこが違う。まとめには書かなかったが、いじめ問題に関しては、理解が似ている。学校は、社会から隔離された聖域として存在させるのでは無く、もっと社会からの影響を受けるべきだと考える。その意味では、新卒、そして先生になる。こうした流れも、見直されるべきかもしれない。
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