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ある大手プロバイダーのブログサイトで、中国批判をしたら、投稿記事がことごとく削除されました。 米大統領をあからさまに批判したり、日本の首相を揶揄するテレビは、習近平の悪口は言いません。 何でもかんでも政治問題化する野党、そんな日本に本当に言論の自由は有るのか、考えさせられます。 自由な民主主義を標榜し、言論の自由を大切と考え、その経験から、自分でサイトを運営する事にしました。
とは言え、実際に自分で自宅サーバーを運用してみたら、いろいろ勉強になりました。 そんな事もブログに仕立てました。自分で自宅サーバーを立て、運用を始めたい方の参考になるよう、そんな記事も準備しました。
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邪魔なんですけど。
読書後のたわごと: 「上から目線」の構造
『「上から目線」の構造』榎本博明(著書)は、「上から目線」が気になる現代人の心理構造を解き明かした本。それは、「上から目線」に世間は過敏になっている。普通に言えば良い物を「上から目線」と誤解されない様に言葉を選ぶ。また、そうした言葉を聞く若者もアンケートを見る限り、非常に敏感になってきている。嫌われることを怖れて叱れない親からほめて育てられた若者たちは、ネガティブな心理状況に弱い。逆に、客だから許される「上から目線」を利用して、日頃の鬱憤晴らしをする者が目立つ。独りよがりの正義感を振りかざして、少しでも落ち度があると思われる人物や企業・店などを容赦なく叩く。ここにも強烈な「上から目線」が感じられる。対等な関係のはずなのに、上から目線でものを言われるとムカつく。それはわかる。所が、明らかに本人よりも上位の相手から言われたことに対して、「上から目線で言われてイラッときた」などというセリフをしばしば耳にする。自信の有無、本物のプライドと偽物のプライド、劣等コンプレックスなどが関係して、「上から目線」を過敏に感ずる人、「上から目線」になりがちな人、双方の問題を探る。

フロムは、現代の市場経済の原理が個人の人間的価値にまで及んでいるとした。人間の価値も、能力や人格ではなくて、周囲の人たちから気に入られるかどうか、受け入れられるかどうかによって決まると言う物だ。相手が親切で言ってくれたという解釈よりも、相手が優位に立ってものを言ってくるという解釈に重きを置いている。明らかに経験も能力も上の人からのアドバイスですら、「上から目線」と感ずる背景は、見下され不安が強い人で、人より優位に立ちたいという思いが強いのに、現実にはなかなか優位に立てない自信のない人物という事になる。人間関係も上下の図式で見る。優位に立とうとして、しかし、自信がなかったり力不足を露呈させないために尊大な態度をとる。仕事上のミスや態度をちょっと注意されたくらいで逆ギレするケースでも、承認欲求の深い挫折感がその背後にあるとみて間違いないだろう。他者に対して防衛的で攻撃的な視線を向けることになる。「その上から目線はやめてください」という物言いに漂う攻撃性には、そのような意味が込められている。

私たちは、自分の持つスキーマでものごとを判断する。本人の中に「上下」「勝ち負け」のスキーマが強く根づいているときに、相手の態度や言葉が「上から目線」に感じられるのではないかということだ。自分がどのあたりに位置するのかを知りたい。青年期になって活性化するのが理想自己との比較である。理想実現への動きを阻害するのが、せっかくのアドバイスや経験談を「上から目線」として拒否する姿勢だ。上下の図式にとらわれない自由な心を持つ人は、年長者や熟練者の経験談やアドバイスに素直に耳を傾け、役立つ部分を貪欲に吸収していく。「自分はこんなもんじゃない」「こんなところにくすぶっている人間じゃない」と思いつつ、多くの場合、自分の本来いるべきところに行くための取り組みをしていない。そのような人がよりどころとしているのが「誇大自己」である。「誇大自己」とは、現実的な裏づけのない誇大妄想的な自己像のことである。活躍している自分。周りから称賛されている自分。有能な自分。カッコイイ自分。そうした理想の自己像を夢見る。現実の情けない自分を受け入れる辛さから逃れるために、「誇大自己」が築かれる。この様な観点からすれば、相変わらず世の中に蔓延している「自分探し」というのも、現実逃避の心理メカニズムによるものといえる。

「便所飯」と言うのが、本当にある。想像もしたくないが、みんながワイワイやってる学食に1人で行って、飯を食う事が出来ない。仲間と群れる事で過ごしてきた若者が、「友達のいないヤツ」「孤独なヤツ」と見られることを恐れるあまり、人目のある場所では昼食を一人で食べることができない。友達づきあいが今の若者にとっての最大の課題になっている。いわば対人不安が強い若者が増えている。相手の反応ばかり気にしてホンネが出せない人は、心理的に非常にきつい。そこで、溜め込んだ思いを匿名性が保たれる形で吐き出す者も出てくる。そこには書かずにはいられない切迫した気持ちがある。筆記という形の自己開示だ。対面で自己開示する場がない者にとって、匿名での投稿は、大きな救いになっている。だが、一方的につぶやくのは気楽な発散法に違いないが、こうして発散せざるを得ない人は、また、迷惑な存在である。匿名は、つまり、視線のやりとりがあるかどうかだ。対面が苦手な人物は、とりあえずはこちらのペースで伝えたいことを一方的に書けばよいとなる。

土居健郎によれば、精神医学の用語のほとんどは輸入物だが、対人恐怖というのは日本で生まれた概念だそうである。日本文化には「甘えの構造」が根づいており、自分はひたすら謙遜しつつ相手が配慮し評価し良きに取り計らってくれるのを期待して待つといった姿勢が身に染みついている。ゆえに、人からどう見られているかに過敏にならざるを得ない。内輪意識とヨソ者意識は、私たちが日頃からしばしば経験する。この「ウチ」と「ソト」を区別する意識を「甘え」という観点から分析しているのが、土居健郎である。「遠慮」が必要となる人間関係を中間帯とすると、その内側には遠慮する必要のない「身内の世界」、その外側にはやはり遠慮をする必要のない「他人の世界」がある。「身内の世界」で無遠慮なのは、「甘え」が許され、心理的距離がないためといってよい。一方、「他人の世界」で無遠慮なのは、「甘え」がないだけでなく、相手との心理的距離が無限大に遠くて意識する必要がないためと言える。「上から目線」を拒否する人が、上司や先輩に「上から目線」に立って、こちらを思いやってほしいと要求するのは、この甘えの構造が、有るからにほかならない。

これを読んで思う事は、「上から目線」が有れば、「下から目線」なる物も存在するという事だろう。なるほどと思う事は、明らかに上下の区別が有る場面で、上に位置する人が「上から目線」を使うと、下に位置する人がそれを嫌い、逆に「上から目線」でクレームを言う。そうした事が、増えて来たんだと言う。今まで気が付かなかった新しい視点だ。こうした事は、言われてみれば、上だろうが下だろうが、確かに有ったなと思い出せる。
また、確実に、「上から目線」だけが癖になってしまった人も居るだろう。互いに退職したにも拘らず、何時までも上司気取りの人は居る。ましてや、ネット社会となり、先に退職した人よりも、後の人が社会をより深く理解し知識も蓄えているのに、旧態依然として、もはや迷信に近い話を金科玉条のごとく振り回す。言葉で振り回すだけでなく、身振り手振りまで、お前とは、人質が違うんだと言わんばかりに、偉そうに、「上から目線」の限界まで使い切る。困った事は、本人にその自覚が無いから、かつての部下を見つけては、近づき、それが始まる。聞く側は、いつまで、「下から目線」の演技をすれば済むんだと嫌になる。
そうした事も、自信の無さ、偽物のプライド、劣等コンプレックス、などが関係していると理解できれば、「下から目線」の忍耐も、今しばらくと割り切れる。逆に、自分の「上から目線」も自分の心内を読み解けば、そうなのかと、理解し対応を変えられそうな気がする。結局、目先の対応を変える事が出来ても、お釈迦様の様な悟りの境地には、やっぱり成れそうにない。

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